Macのファイルを整理してたら書き散らした下書きが見つかったので手直ししてここに書く。
1979年4月7日に「機動戦士ガンダム」の第1話「ガンダム大地に立つ」が放映され、2019年4月7日で40年たった。ちょうどアマゾンプライムでファーストガンダム、Ζガンダム、逆襲のシャアを通して鑑賞したところなので、記念に各作品の感想文を書く。
機動戦士ガンダム 成長するアムロと情けなくなっていくシャアの物語
ガンダムとの出会いは、テレビ放映終了後、ガンプラブームに火がつき始めたころに、オカンに買ってもらった量産型ズゴックだった。とういことは1980年、9歳ぐらいのこと。1/144 MSM-07 量産型ズゴック (機動戦士ガンダム)
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その後はしばらくモビルスーツに乗らず、ゲルググに乗るころにはもうアムロに勝てず、ララァだよりなところがすでに情けない。サイコミュ搭載のジオングに乗ってもとうとうガンダムには勝てず。
私はシャアよりもアムロが好きで、特にガンダムで脱走してパン食ってるときに敵のおっさん(ランバ・ラル)と出会ってその愛人(ハモン)の美しさに惹かれ、やっぱりホワイトベースに戻って敵と戦ったらあのおっさんで、チャンバラでズバッと勝ったのに「うぬぼれるなよ〜」で試合に勝って勝負に負けたことになり、ぶちこまれた独房で「あの人に勝ちたい」とアムロが悔しがる流れがほんとに好き。
後年、なんとなくエウレカセブンというアニメを観てたら、主人公のレントン少年が出会うレイとチャールズ夫妻のエピソードがアムロとランバ・ラルの話にそっくりで、年長者との戦いを通して少年が成長するエピソードとしてガンダムはテンプレとなっているのだなあと感心した。
劇場版「ガンダムII 哀・戦士編」だと脱走したアムロがガンダムを砂に隠したり、砂漠に寝転んだりする風景がさらにいい。なぜ泣くのです。風が痛いから。
機動戦士Zガンダム アムロを絶対にガンダムに載せないガンダム
ゼータはやっぱり、さっぱり話がわからない。ネットで背景を調べてなんとか把握できる。視聴者に話を伝えよう、という姿勢をぶん投げすぎ。後半は冗長で緊張感がない話がダラダラ続いてつらい。主人公のカミーユは大した動機もなく衝動的にモビルスーツをパクり、少年が成長するカタルシスもないまま戦闘を重ね、容姿が優れた異性と仲よくなるためにニュータイプ能力を使い、そのためには戦闘を放棄してモビルスーツを降りることもいとわない。だからΖガンダムも強いという印象がない。カッコいいのにもったいない。
しかしいくらなんでも戦闘中にモビルスーツを降りすぎだろカミーユ。ファーストでガンダムとグフがチャンバラしてコクピットが露出してアムロとおっさんが対面し、中立コロニーでアムロとシャアが出会うのは、戦争中の敵同士が顔合わすための練りに練られた舞台なわけで、だからこそ劇的であり、ドラマが生まれる。
そういった特別な舞台無しに、兵器に搭乗している兵士たちが対話するには、モビルスーツから降りるしかないんだけど、それができないのが戦争で、なのに何回も何回も最前線でモビルスーツを降りるカミーユはバカにしか見えず、ファーストにあふれていた戦争の緊張感がゼータには全くない。
アーガマの面々が平気で命令違反を重ねるのもキツい。おまえらピクニックにきてんのか。ブライトもなぜかカミーユを放任する。ウォンさんだけはカミーユをしばきあげてくれるが、そのウォンさんがまた極度にウザいキャラなのでどうしようもない。
アムロとシャアはいい。大人になった2人の再会シーンはよかった。思わず互いの名を口にしてしまうふたり。操縦桿を握りしめるクワトロに、こちらも拳を握ってしまう。
アムロを決してガンダムに乗せないのもいい。みんなオレへの当てつけでガンダムを若いヤツに乗せる、とひがむアムロ。いい。カツでさえマークIIに乗るのに。
クワトロのお下がり的にリックディアスに乗り、やっと専用機作ってもらえたと思ったらゲルググの出来損ないみたいなディジェだったり。すごくいい。ディジェを始めて見たときアムロはどんな顔したんだろう?
あと、後期オープニングの作画も楽曲も神レベルで、クワトロがサングラスを外しなにかを含んだ表情を見せ、富野が書いた美しい日本語の歌詞(カタカナも横文字も無い)をデビューしたての森口博子が天使のような声で歌い上げる。この歌だけでゼータの価値をググッと上げざるを得ない。
機動戦士ガンダム 逆襲のシャア アムロと全力で遊びたかったシャア
ゼータですっかり丸くなり、アムロと乾杯までしたシャアが、やっぱクワトロはおれのキャラじゃない、もういっぺん本気出しちゃうぞ、と頑張る「逆シャア」。ファースト以来、再びアムロがガンダムに乗り、赤いモビルスーツに乗ったシャアと激闘する。ビームが尽き、サーベルが折れても拳で殴る。νガンダムとサザビーの格闘シーンは兵器が人型であることが最大限にいきていて、これだけでガンプラを買いに走りたくなる。
モビルスーツの勝負はアムロが勝つ。結局シャアは最後まで勝てなかった。
おまえだけ逃げんなとばかりにシャアの脱出ポッドをアクシズにたたき込むアムロ。ここからが逆シャアのクライマックスなのだが、命を捨てても地球を守りたいアムロに対して、脱出ポッドからララァを失った恨み節を述べるシャアはホントに情けなく、アムロも「情けないやつ」と思わず口走る。
シャアの「ララァは私の母に〜」、アムロの「お母さん? ララァが? うわっ」で2人の戦いは終わり、映画も終わる。なにこの映画……?
シャアがアムロ側にサイコフレームを横流ししたことから考えると、アクシズを地球に落とすより、この作戦を通してシャアはアムロと遊びたかったんだろうな。遊びは相手と力が拮抗しているほうがおもしろいから。
おまえのせいで大切なララァを失ったんだからその責任取って最後までオレと遊べよな、みたいな。でも負けたら「サイコフレームはオレが提供してやった」と負け惜しみするシャア。情けな……
アムロとシャア、この2人は存在する限り、戦いを続けなければならない宿命なので、このラストはよかったんだろう。もう戦わなくていいから。
しかしシャアという人には不思議な魅力があり、ユニコーンでは残留思念までリサイクルされてしまうんだけど、リサイクル先のフロンタルがブチ上げた「サイド共栄圏」をみんなからダメ出しされてやっぱり情けなくて、もうそっとしておいてあげたら、と思いました。