このブログ、書きたいことを書く雑記なんですけど、テーマを決めたいというか、一本芯を通したい。
それは何かな、と自問していたのですが、答えらしきものを見つけました。
「善良であること」です。善良であるためにどうすればいいのか。何をしているのか。何か変わったのか。
それを書いていききましょう。
良い習慣を積み重ねて人格を高める

「善良であること」は、お人好しとは違います。
人間は、生まれついて善性も悪性も備えているけど、悪に傾きやすい生き物です。
自己を律して良い習慣を積み重ねるか。堕落して悪い習慣におぼれるか。
良い習慣を積み重ねることで、自己を善良に保ち、人格を高めたい。人間としての完成を目指したい。
善良である、とはそういったことを指します。
武士は訓練で自己を作り上げた

良い習慣を積み上げるって、訓練です。
訓練で自己を作り上げる、ということを極めた人種が、かつて日本にいました。
武士です。
人間には公と私があって、「公」を大きく、「私」を小さくしようとしたのが武士という人種です。
「私腹を肥やす」という言葉があるように、私ばかりでは生きざまが醜くなります。
「公」を大きくすれば美しくなりますが、難しいのです。
しかし武士は、たゆまぬ訓練により「私」を捨て、「公」を大きくしようとしました。自己を訓練し、望んだように作り上げたのです。
なんと魅力的な試みでしょう。私もそういう挑戦をしてみたい。
しかし「公」というのは壮大すぎます。そこで、せめて自身が善良であるように訓練しよう、というわけです。
きれいごとじゃなくて 自分のため

善良でありたい、とはきれいごとではありません。
試してみると、善良であればストレスが減り、収入が増えて、楽しくなるのです。善良であるのは、完全に自分のためです。
試すうちに、おかしなことにも気づきました。
善良であるために、自分で規律を作り、守る。決めたタスクに、集中して取り組み、クリアする。きゅうくつで、苦しそうです。やってみると、疲れます。
しかし、それ以上に、過程そのものが楽しいのです。集中して習慣に取り組んでいる瞬間が、心地よいのです。
習慣は苦行ではない

善良であるための習慣は、苦行ではありません。
決めた時間に起き、顔を洗い、ひげと髪を剃り、仕事し、食事を作って食べ、体を鍛えて、風呂に入って寝る。淡々と、自分で決めたことを繰り返します。それが、楽しいのです。
決めたことができないと、楽しくありません。できるように改善します。決めて、やれることが増えていきます。それがまた、楽しいのです。
人生の楽しみは他者との交流だと気づいた

私は社交的な性格ではありません。他者との交流は、めんどくさく、疲れます。
しかし、そんな私でも、「人生の楽しみは他者との交流だ」と確信するようになりました。認めたくなかったけど、50歳目前になって、やっとそこに至りました。
今まで私は、膨大な損失を重ねてきたのです。思春期、青年期に他者との交流を避けるなんて、砂金が詰まったポケットの穴をふさがずに走り続けるようなものです。
老年期が見えてきて、砂金が尽きてから、その愚かさに気づきました。しかしポケットに、まだ少しはなにか残っているようです。
だったら、今からでも改めて、他者と交流をしてみましょう。そのためには、自己が善良であるほうがいいのです。
誰かに道をたずねるとすれば、まず善良そうな人を選ぶじゃないですか。
他者と交流すると利益が増える

他者との交流が増えると、得をします。情報は交流によって流通するので、交流が多い人には多くの情報が流れ込んで、得をするのです。
得することを目的に善良を目指すのではありませんが、結果的に得をしてしまうのです。
仕事において、これは重要です。自社、取引先、業界の情報が、善良な人に流れ込みます。人と人をつなぐハブとなります。
そんな人には仕事が流れ込み、おかねが集まります。
同じような商品が2つあって、どちらかを選ぶとき。どんな人が売っているかで、最終的な判断をすることがあります。
特に、家や車など、買い物が高価なほど、担当者の人柄が決め手だった、という経験はないでしょうか。
善良な人ほど、ビジネスもうまくいく、ということです。
ブログを書くことも良い習慣に
善良であることそれ自体が楽しい。他者との交流も増えて人生が楽しくなる。収入も増える。
これはもう、善良を目指さないわけにはいきません。
良い習慣を積み重ね、人格を磨き、自己を善良にする。
怠惰や悪に流されない勇気や、タフな肉体が必要です。
勉学を続け、美術に触れる活動も増やしたい。このブログを書くことも、善良であるための習慣となるのでは。